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『キッズ・リターン』のラストシーンにおける指示棒の持つ重要性に関する覚書

  • 一泉 凡隘
  • 2023年7月14日
  • 読了時間: 5分

更新日:2023年7月19日

『キッズ・リターン』は、数多くの優れた作品を世界に送り出してきた北野武監督作品の中でも、極めて高い評価と知名度を得ている作品である。特に、高い志と夢を持った二人が互いに夢破れ、かつて悪さの限り(そうは言っても高の知れた、「どこにでもいる」不良程度のものだが)を尽くした母校の校庭で、再び自転車に二人乗りしながら「俺達、もう終わっちゃったのかな」「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」と悪態をつく最後のセリフと、それと同時に爆発音と共に激しくなる久石譲の音楽は極めて高い評価を得ている。

 

しかしながら、あの映画において最も重要であり、注目すべき場面は、そこではない、とあえて言ってみよう。たしかに、あのラストシーンの中にその箇所は隠されている、だが、それに誰も気づかず、通り過ぎてしまうのだ。件の画と台詞、そして音楽があまりにわかりやすく感動的であるからかもしれない。だが、それらをはるかに超えうる美しく、同時に儚いシーンが隠されているのだ。私は、あの映画を好む全ての人々に、もっとそのシーンに注目していただきたいと思っている。


それは、森本レオ演じる高校教師の授業風景である。森本レオは、「どこにでもいる、普通の」歴史教師役で、その授業は、断片的に流れてくる範囲では、極めて「どこにでもある、普通の」授業である。彼は、ラストシーンでは、ちょうど第二次世界大戦前の世界情勢、すなわち列強支配について淡々と——つまり、眠くなるような声色とトーンで——授業を進めていく。その授業を、小野と呼ばれる生徒は退屈そうに聞いている。窓の外を見遣り、森本の話など完全に上の空だ。森本は、清のイギリスに対する九龍半島割譲の解説の途中でまったく集中していない小野に気づき、くるくると回していた指示棒を止めて注意する。


 「小野」「外ばっかり見てるんじゃない」


いかがだろうか。このシーンの持つ重要性に気づいていただけたであろうか。このシーンの何がそんなに重要なのか。その重要性は、森本演じる高校教師が、指示棒をくるくると弧を描くように何度も回していることから始まる。小野は、そのくるくる回る指示棒に気づかない。彼の視線は、森本に呼ばれるまで、ずっと外を向いている。森本が教えていたのは、大戦前の列強諸国の不穏な動きに関する「普通の」歴史ではなく、“人生は循環し、どこへも行けない”のだ、そして“世界のすべては無意味である”のだという「普通の」ことなのである。そして、その解説を聞き逃し、「ここでないどこか」を追い求めるように窓の外の遠くを見つめていた小野は、否、あのクラスにいたすべての生徒達は、きっとそれを今後の自らの人生の中で改めて学ぶことになるのだ。


マサルとシンジは、クラスメート達が一生をかけて学ぶであろうことをわずか数年で学びきっただけに過ぎない。ぐるぐると円環し、どこへも行けないように感じていた自らの人生。そのことに半ば無意識的に反抗し、夢も目標もなく、刹那的に生きていた彼らは、たまたま起きた出来事をきっかけに、その円環から外れることを夢みる。互いに異なりつつも、結局のところ同じ目的に向かい邁進していた彼らを、人生という不条理が襲う。劇中ではわかりやすく挫折した彼らだが、仮にあのままボクシング・チャンピオンとヤクザの親分になっていたとしても、結末は同じことであったろう。どれほど惨めな人間も、どれほど栄華を誇る人間も、結局のところ、循環する人生という時の流れの前では無力であり、やがてはその円環に吸収されてしまうのだ。いや、もっと正確に言うなら、円環から逃れていた気になっていただけで、実際はその円周上から一歩も動いてはいなかったという事実を認識する時が来るのだ、と言うべきであろう。


そうして自らが人生という円環の上から一歩も動いてはいなかったということをまたしてもほとんど無意識的に理解した彼らは、やがて彼らの始まりの地、母校へと向かう。かつてのように、青春の証としての自転車に二人乗りしながら。もちろん、よく言われるように、その乗り方のかつてとの差異に着目しても良いのだが、やはりここでは、彼らがその始まりの地の校庭で、再びぐるぐると円環していることに注目しようではないか。行き先もない。出発地もない。産まれ落ちてしまったままに、いつかぷつりと切れる、その時まで、彼らは、否、われわれは、ぐるぐると同じところを回ることしかできないのだ。彼らが再び校庭に描く軌跡は、その表れである。そして、同時にそれは、あの、外をぼんやりと眺め、「ここでないどこか」を夢みる小野の未来でもある。


だから、この物語は、実は小野こそが主人公であり、マサルとシンジは小野の未来を姿を変えて演じた脇役に過ぎないのである。「ここでないどこか」などない、そのことに小野が身を持って気づくまで、彼は夢を見る。夢を見ている間は幸せである。夢から覚めれば、そこには無意味しか残されていない。ああ、青春のなんと甘く、そして悲劇的なことか!そのことを思えば、かつて、小野と同年代の頃に「ここでないどこか」を夢み、そして「今、ここ」にしかいられないのだと悟ってしまった私は、悲しみの涙を堪えることができない。



せめて夢を見続けよう、たとえ、身は「今、ここ」から逃れられないとしても。私の魂は、それだけは、「ここではないどこか」に置き続けておくために。



(文=一泉 凡隘/いっせん ぼんあい)

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